7月上旬、井川はロードゲームのためにペンシルバニア州のべスラハムという町にいた。もっとも、“べスラハム”という名のマイナー球団は存在せず、ベスラハムを含む三つの町が中心となった地域を示す“リーハイバレー”が球団名となっている。
リーハイバレーのプロ野球チームの愛称は“アイアンピッグ”、つまり“鉄の豚”という。フィリーズが同地域へのマイナー球団誘致を熱望したこともあって、当初は“フィリーズ”となる話もあったが、結局、かつて鉄鋼業で栄えた地域らしい名前を、ということで“鉄の豚”になった。
鉄=アイアンは分かる。豚=ピッグ? なんだそれは? と思ってしまうが、リーハイバレーが製造していた “ピッグ・アイアン”と呼ばれる製品が、その語源らしい。劇場やTVスタジオで使用する豚の鼻型の錘のことである。
単に“鉄”や“豚”と聞くと、都会の洗練された感じとは対照的な、泥臭さを感じなくもない。しかし、アイアンピッグスの本拠地コカコーラ・パークは、井川曰く、「ここはマイナーにしておくのはもったいないぐらいの球場」だった。
「ロチェスターとかもきれいですけど、ここほどじゃない。うち(スクラントン)やバッファローなんかは、建物自体がかなり古いですから」
正式には数年前ということになるが、球団がホームゲームを開催できるようになったのは今季からだ。もちろん、新球場もそれに合わせて作った。
「町もちょっと違う……ホテルとか。いつも泊まっているような場所とは、何かちょっと違いますよね」
スクラントン・ヤンキースの宿泊先は、全米に点在する“歴史的ホテル”の一つであり、建物の作りや室内装飾品の類が、いかにも古くて重厚な感じを漂わせた。そんな場所で野球の話をするのはどうかと思ったが、取材は取材だ。気になることはすぐさま聞いておかねばならない。
「カッターですか?」と井川。
そうです、最近投げていると言う、カット・ファストボールのことです。
日本風に書けば、“高速スライダー”ということになるだろうか。限りなく真っ直ぐ=ファストボールに近いが、打者の手元で鋭く小さく曲がる。それを最近実戦配備したと聞いていた。
「カッターはね、そんなに練習しなくてもいいんです。すぐに投げられる感じがある。もちろん、日によって良かったり悪かったりというのはあるけど」
武器にはなってるのだろうか?
「んー、使ってますけどね」
そう言ったきり、短い沈黙があった。武器と呼ぶには心許ないということか。
「ピッチングが楽になったのは確かですけどね」
アメリカの左腕投手の中には、カッターを使うことでメジャーへの活路を開いた者もいる。彼らにとっては対戦する確率の最も高い右打者をいかに打ち取るのかが“成功の鍵”となるからだ。
左対左、右対右という、野球界の古い常識から考えれば、世にいる左投げ投手のすべては、常に不利な対戦を強いられる。アメリカの左腕投手は、右打者に対して真っ直ぐ=ファストボールとチェンジアップを駆使して打ち取ろうとする。カーブやスライダーを右打者に頻繁に投げる左投げ投手は―どちらかと言えば―少ない。総じてパワーがあるため、打者の手が届く範囲内の変化球を制球ミスすればバットに当てられ、間違えれば長打に繋がってしまうからだろう。
だから、内、外角へ投げ分けるファストボールとチェンジアップの精度で、彼らの運命が決まってしまうことが多い。チェンジアップは中から外への変化球であり、もしも内角に威力のある速球が投げられるなら、打者は容易に踏み込めなくなるからだ。
「ただ、こっち(アメリカ)に来てから思ったのは、こっちの打者はチェンジアップに慣れているから、ボール球は見逃すし、真ん中に行ったら打たれてしまう」
慣れている、という言葉は、投手にとっては“不吉な響き”を持っている。
「日本だったら困った時に真ん中高めに投げておけば良かったけど、こっちのピッチャーは大体、皆チェンジアップを投げるから、バッターも簡単に当ててくる」
それはおそらく間違いではないだろう。逆にメジャーリーグやマイナーリーグの打者は、日本のピッチャーがよく投げるフォークボールにタイミングが合わない。アメリカでは肘を傷める可能性があるといわれている球種であり、それをもち球として使うピッチャーが限られているからだ。そこでヤンキースのアンディ・ペティットや、今年のサイヤング賞最右翼と言われているインディアンズのクリフ・リーは、ファストボールに“カッター”や“2シーム”など、工夫を加えて投げている。
野手がメジャー移籍を開始して以来、我々、日本の報道関係者はアメリカにいるピッチャーの投げる速球を「手元で微妙に動くボール」などと表現するようになった。やがてそれが2シーム・ファストボールやカッターであることが分かった。内に曲がったり外へ曲がったり、はたまた手元で沈んだり、確かに微妙に動くから「手元て動くボール」というわけだ。
抜群の制球力で 300勝投手となったグレッグ・マダックス(ドジャース)は、自身の最大の武器である2シーム・ファストボールやチェンジアップを最大限に活かすために、カット・ファストボールを投げるようになったと言われている。彼はそれを左打者の手元に投げ込む。左打者は速球だと思って打ちにくる。ところがえぐり込むように変化するため、打者はバットの芯を外して根元でしかボールを捉えることができない。打球は力なく一塁方向に転がり、内野ゴロとなる確率が高い。ペティットやリーはその左投げバージョンであり、彼らの場合、犠牲者となるのは右打者だ。
「カッターの場合は、前に飛ぶから」
と井川。前に飛ぶ。つまりイン・プレー=フェアになるという意味だ。
「普通の真っ直ぐとか2シームだと、空振りかファウルになる。まぁ、それでカウントは稼げるので悪いことではないですけど、それだと球数が多くなるし」
球数の減少。その理由の一つである奪三振が目に見えて減ったのは、6月に入ってからのことだった。
「あんまり考えすぎると駄目になっちゃう。こうしたらもう少し曲がんのかな、とか考え出すと駄目。実際、試合で使い始めて、最初は良かったけど、考え始めたら曲がんなくなっちゃったんです。ただ、カッターを練習し始めてから、なぜかスライダーも良くなってきた」
何かを覚える時というのは、そういうものなのかも知れない。追求しようとすればするほど、自分が思い描いているものから遠ざかる。ところが忘れた頃にやってみると、意外とうまくいく。カッターの習得が感覚的なものだとすれば、井川の苦戦も創造し易い。
「(カッターを)投げていたのは去年からですけど、使えるようになったのは6月かな。ロチェスターとやった時にはカッターばっかり投げた記憶がある」
6月2日の対ロチェスター戦は、7回9安打6失点で勝利投手になっている。それらの数字から判断すれば、「打線の援護のお陰で勝てた試合」ということになる。しかし、この日の井川は四球を合わせて合計8人の走者を出し、しかも6三振も奪いながら、7回を92球で乗り切ったのだ。当たり前の話だが、走者を出せば出すほど球数は増えるし、三振の数が増えても球数は増える。三振以外のアウトを比較的少ない球数でとった証だろう。井川が言う「カッターは前に飛ばしてくれるから、ピッチングが楽になる」というのは本当の話だったのだ。しかし、幾らカッターの習得によって“打たせて取るピッチング”が出来るようになったとしても、対ロチェスター戦のように9安打も打たれては「使える武器」とは言えない。6失点も当然だ。
「…カッターを低めに投げると、なぜかうまく打たれるんですよね」
井川が漏らした何気ない言葉の中に、その後の彼の進化を予期させるヒントが隠されていた。
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