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●KQUEST COLUMN 2008

KQUEST 第十三回 自彊不息

 

 フロリダの肌寒い朝。
 肌寒い? 南国のフロリダで?
 いや、確かにそうだったのだ。その日、2月15日の朝、フロリダ州タンパの朝は、長袖のシャツかジャケットを羽織らなければならないほど涼しかった。
 レジェンズ・フィールドのライトフィールドに姿を現した井川も、長袖のアンダーシャツを着ていた。かなり寒そうである。
「ああ、そうですね。今朝はちょっと。でも朝はいつもあんな感じですよ」
 と井川。時間にして午前8時すぎ。まだ全体練習が始まる前の無人のフィールドで、彼は淡々とウォームアップしていた。それを十数人の日本のメディアがスタンドから見守っていた。
「いつもはあんなにいないですけどね。初めてです、あんなの」
 TVカメラが何台も並び、カメラのシャッターが何度となく切られた。彼らの目的は一つだった。その日の井川の投球練習を撮影するためだった。
 去年の今頃ならそれは日常の風景だった。メジャー挑戦一年目、阪神タイガースからニューヨーク・ヤンキースへ。その移籍を大きく伝えたのは日本のメディアだけではなかった。一年前のキャンプでは、ニューヨークの地元メディアも彼の動向を細かく伝えた。期待の新人、日本からの助っ人、5年総額4600万ドルの投資。メディアの注目度は自ずと高かった。しかし、それから一年が過ぎ、井川の立場は大きく変わってしまった。


 2008年のキャンプ、アメリカのメディアが作り出す物語の中心に井川はいなかった。井川の早朝練習に姿を現したのも日本の報道陣だけである。
「いいんじゃないっすか。そもそもこっちの新聞って、英語だから読めないし」
 と井川。あまり興味のない話題なので、彼の表情もあまり変わらない。
「まぁ、読めたとしてもね……。元々、日本にいた頃から新聞とか読まないですし」
 報道に対する本人の関心はともかく、今年の春、彼に対する地元メディアの関心が低いのは間違いなかった。野手組に先立って行われたバッテリー組キャンプでの主人公は、フィル・ヒューズやイアン・ケネディー、あるいはオフの間に禁止薬物騒動の渦中にあったアンディー・ペティットだった。
「(今年の)自分の立場がどうとかは、あんまり考えないです。頑張んないと駄目なのはどこでも同じなので」
 答えは分かっていても、聞かなくちゃならない。
「まぁ普通です。自分がやることは変わらないですから」
 もしも昨季、井川がヤンキースの優勝に貢献していたとしても、彼はおそらく同じコメントを言っただろう。阪神時代に同じような質問をしたところで、それはきっと変わらない。先発1番手だろうが、先発5番手だろうが、あるいはその枠外だろうが、彼がキャンプですることは変わらない。Hard Workのみある。
「ただ、今年は話し合って、自分のやり方で肩を作っていけることになりましたけど」
 自分のやり方=“早出特投”。
 井川の2008年キャンプは、少し風変わりな投球練習で始まった。


 レジェンズ・フィールドのブルペンに入った井川は、普段と変わることもなく、一球、一球、丁寧にボールを投げていった。いつもと違うのは時間だけである。
 実際の投球練習で去年と違うことがあったとすれば、それは昨年半ばから始めたように、キャッチャーを立たせたまま、つまり“立ち投げ”を少し長めにやったことだった。
「その辺はずっと変わらないですね。去年、マイナーに落ちてからずっとやってきたことですし」
 と井川。やがてキャッチャーを座らせて、彼は本格的に投げ始めた。真っ直ぐ、スライダー、カーブ、チェンジアップ、インサイド、アウトサイド、ワインドアップ、セットポジション、さらにはクイック・モーションと、球種や想定場面を変えながら練習は続いた。投球フォームはバランスを崩すことなく安定しており、意識して低めに球を集めているように見えた。
「低めに投げるってのは基本ですし、バランスよく投げるってのも普通のことですから、特に丁寧に投げているって意識はないです。あれでもまだバラついている方だし」
 なるほど、彼の指から放たれたボールは、必ずしも構えられたキャッチャーミットに収まっていたわけではない。スライダーがコースを大きく外れたり、チェンジアップがワンバウンドになったり。しかし、去年の今頃のように高めに大きく抜けるボールはなかった。だから当然、調整法を変えた成果があったのでは? と言いたくなる。
「いや、どうなんでしょう。別に変わんないんじゃないですか」
 予想通り、と言えば予想通りの答えだった。
「去年よりも肩が仕上がっているのは確かですけどね。特に調子がいいとかは思わない」
 曖昧な質問の答えは、いつも曖昧である。


「まぁとにかく、今年はそういう形でやっていこうと決めたので」
 と井川。そういう形、というのは、キャンプ地入りした井川が始めた“朝出特投”のことだ。去年のキャンプではアメリカ流に従って「投げ足りなかった」。そこで今年の彼はタンパ入りしてすぐに首脳陣と面談し、自分流の調整を行う許可を貰った。しかし、井川はまだメジャーではそれほど実績がない。妥協すべきところはしなくてはならない。そこで全体練習の前に投球練習を組み込むことでスケジュールの調整を行った。
「もちろん、全体練習の中で投げる日には(朝は)投げません。それに朝投げたとしても、全体練習は皆と一緒にきちんとやるという約束です」
 と井川。キャンプ直前に行われた首脳陣の面談には、ブライアン・キャッシュマンGMもジョー・ジラーディ監督と共に同席した。何かと特別扱いを許さないヤンキースだが、ケイ・イガワには結果を出してもらわなくては困る。そこで何の異論もなく井川の要求が受け入れられたわけだが、リクエストを出した方はただ盲目的に早出特投をしたかったわけではない。
「日本にいた頃にノートを付けていたことがあるんです」
 球数を?
「キャンプ中の朝起きた時の体調とか、今日はこのぐらい投げたとか。今朝は体のどこが張っているとかも書いてましたし、何時に起きてどんなことをしたのか、とか」
 阪神のエース、沢村賞投手、そしてニューヨーク・ヤンキースのケイ・イガワとなる過程で捨てられた「初心」。メディア的にはとても魅力的で便利な響きだった。
「うん、まぁ……それはどうですかね」
 質問者の誘導尋問には簡単には乗ってこないが、彼が今年のキャンプにある種の「変化」を求めていたのは確かだった。


 メジャーリーグのキャンプは短い。
 球団によって多少の違いはあるが、朝9時頃に始まった全体練習は、昼までに終わってしまう。キャンプはバッテリー組が先に始まるが、その期間中は連係プレーや打撃練習もないので、傍目にはストレッチ、キャッチボール、投球練習、ランニングだけで終わってしまう。
「自分は投げた後にとりあえずサブグラウンドに行ってランニングします。ウェート(トレーニング)はその後。まぁ、それでも2時ぐらいには終わっちゃいますけど」
 だから、報道陣にとっては彼が投球練習している姿が大事になってくる。朝、早かろうが、遅かろうが関係ない。我々は井川がどんな練習をし、それをどれぐらい長くやっていたのかをノートにメモする。当然、彼が投げた球数もきちんと数え、それが時には記事になる。ところがその球数には、きちんとした出所=ノートがあった。
「球数については、昔はこの時期にこのぐらい投げていたんだなって、ちょっと確認しながら投げているような感じです」
 と井川。すでに書いたが、起床時間、練習内容、球数、体調等が記されたノートが、今年のキャンプでは一つの目安となった。それがまた、彼の実際の練習を経て報道陣のノートに書き込まれていく。不思議な巡り合わせだった。
「この時期には70球投げていた、とか。この時期には100球超えたとか。去年、こっちに来てからはあまり投げてないけど、日本にいた頃はほとんど毎日ブルペンに入っていたんで、投げる量は全然違っていた」
 あれ? 日本式の“投げ込み”は嫌いなんじゃなかったっけ?
「投げ込みをしているっていう意識はないですよ……今も日本にいた頃も。ただ、こっちに来てから極端に投げなくなったんで、それはちょっとどうかな、と」
 新人時代のノート再発掘。投球練習の増加。小さな疑問が積み重なった2007年を受けての原点回帰。受身の自分を捨てた井川が、積極的に自分流に立ち戻った。

(文中敬称略)

 

  

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