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●KQUEST COLUMN 2008

KQUEST 第十一回 優游涵泳

 

 マウンドの後で深く息をついて、まるで精神統一するかのように視線を地面の一点に落とす。少し間を置いてから、やがて井川は顔を上げ、対戦相手を見た。勝負に挑む、真剣な表情がそこにはあった。
「マジですよ。真面目にやんなきゃ……」
 ずっと後になってから井川はそう言った。
 1月下旬の水戸、女子プロ・ゴルファー青山加織&原江里奈との対決。気分転換の“お遊び”ではあったが、彼が真面目になった理由は他にもあった。 「まぁ、間違って当てちゃったら大変ですからね」
 そうは言いつつ、そのボールに遠慮があったとは思えない。ゆったりしたフォームから、鋭く腕を巻き込んでいく、いつものフォーム。もちろん、全力投球ではないが、力強い速球がキャッチャーミットを叩いた。
「マジだって言ったじゃないですか。ちゃんと投げましたよ」
 相手はまだ二十歳を過ぎたばかりの女の子たちなのだが。
「相手もプロですから。プロ相手だったら、やっぱり真面目にやんないとね」
 畑違いのアスリートにプロも何もないと思うのだけど。
「打たれるわけにはいかないんでね」
 本気なのか、冗談なのか。いずれにせよ、相手がスイングすら出来なかった第一球は、意外なほど力のこもったファストボールだった。


「やっぱ最初に見せとかないと……速いのを」
 素人相手に駆け引きかよ、と思うが、半分本気、半分冗談の井川は言葉を続ける。
「いや、相手はプロですから。プロにはプロの技で対抗しないと」
 相手は野球選手ではない。ゴルファーだ……しかも体格的にはハンディのある女性だし。
「内に速いのを投げてから外に遅いのを投げる、とかね。やっぱ駆け引きしないと」
 笑ってはいるが、どうやら大真面目である。例えば井川がその言葉通りに外に少し力を抜いた速球を投げる。ところが女子プロ・ゴルファーはそれをバットに当てて見せた。
「とりあえず振ってくるんですよね。緩いボールにはタイミング合っていたし」
 本気だったのは、野球のプロに挑んだゴルフのプロも同じだった。
「そろそろ、いきますか?」
 と井川が言うと、20メートル近く離れたバッターボックスからこんな声がする。
「まだダメーッ」。
 青山も原もそれぞれの順番で「もうちょっと見てから」と言い、井川のボールを見極めようとしていた。遊びではあるが、やるからには真剣だ。挑戦者は強気にこう言う。
「バットには当たるんじゃないかな?」
 井川は挑戦者の希望に沿ってプロの投げるボールをさらに数球見せてやり、やがてこう言った。
「よーし、行くぞーっ!」
 そして勝負が始まった。室内練習場に広がっていた遊び気分が、なぜかその瞬間に消えていた。


 井川がゆっくりと振りかぶって投じたボールは、予告通りインサイドのファストボールだった。胸元の速球を、しかし、20代前半の女子ゴルファーは強振した。しかも空振りした後に悔しそうな表情を浮かべて。
 どうやら彼らは真面目に勝負を楽しんでいる。投げている方は素人相手に駆け引きし、打っている方はその道のプロ相手に本気で勝つつもりだ。レベルの違いとか競技の違いとかは関係ない。これもアスリートのスピリットというヤツだろうか。
 しかも、続く二球がボールになると、井川はこう言うのだった。
「あれ、なんか調子悪いな?」
 結果から書くと、井川は二人の女子プロに対して、1四球1安打を許した。彼の名誉のためにさらに書いておくと、四球は何とか打たせようと苦心した挙句の結果であり、痛烈な当たりを飛ばされた安打は、室内練習場の中では打球の方向が定かではなかった。
「でも、きちんとバットに当てたんだから、そこはスゴイ。さすがプロですよ……」
 と井川。感心している場合ではないのではないか。
「そうですね。一球ファウルがあったから、もしかしたらとは思ったけど、まさか前に飛ばすとは思わなかった」
 畑違いでも「プロだから」という彼の理屈も納得できる。
「まぁ、一緒に走って負けるぐらいですから」
 井川流勝負の鉄則は、目に見える明確な理屈抜きには語れないらしい。


 女子ゴルファーに走り負けたとしても、井川はそこで走り勝つための練習はしなかった。
 当たり前の話だが、彼がそういう目的で練習していたわけではないからである。1月の練習の目的はシーズンを戦うための準備だ。決められた距離を時間内に走ることではない。
「少し重いんで、やっぱりその分、体が動いていない」
 と井川。確かに1月下旬の彼は、見た目にも少し体が重そうだった。
「でも、井川さん、力抜いて投げているんじゃないかなって思いますよ」
 そう言ったのは吉田光宏だった。彼は添田隆也トレーナーの助手的立場で自主トレーニングに参加していた。ブルペンでの投球練習ではマスクを被って、井川や田村領平、岩田稔らが投げるボールを受けていた。ただし、キャンプに入る前の調整段階とはいえ、プロの投げる球だ。速球だろうが変化球だろうが、プロじゃない人が捕るのは簡単ではない。
「そこそこ力入れて投げてますよ。いい練習になってます」
 と井川。少し多目の体重以外は、すべて万全と言ったところだろうか。


 日本にいた頃、井川は2月1日から始まる日本の長いキャンプで、じっくりと時間をかけて投げられる状態を作っていくのが常だった。1月の自主トレーニングでは遠投が出来ればそれで充分だった。後はキャンプ地で毎日投げ込んで肩を作っていけば良かったからだ。
 ところがメジャー移籍初年の去年は2月半ばのキャンプ・インである。
 しかもアメリカ流では日本のように球数を投げさせてはくれない。オープン戦で何とか結果を残して開幕メジャーに残ったものの、井川の中には投げ足りない感覚が残っていた。
「去年はとりあえずあっちのやり方でやってみようと思っていたので、それはもう仕方がない。でも、実際にやってみて、これじゃダメだなって思った。それに気がついたのが去年の収穫と言えば収穫だった」
 と井川。そこで彼はこのオフ、投球練習が作れるような環境を自ら作り上げた。キャッチャーがやれる吉田さんの存在は大きかった。
「まぁ、まだバッターを立たせるような段階ではないですけど、それなりに肩が仕上がったという実感はありますね」
 ただし、試合で投げてみないと分からないことは多い、と井川は言った。
「ブルペンで投げるだけだったらいつでもある程度は出来る。でも、試合になるとまったく違うから、それはタンパに行ってみないと分からない」  期待と不安が混在する言葉。オフ・シーズンならではの遅々とした時間の流れ。しかし、2008年のベースボール・シーズンは、確実に足音を立てて近づいていた。

(文中敬称略)

 

  

KQUEST 第九回 投禅一如
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