たぶん、遅れてくるんだろうなぁ、とは思っていた。
予想通りである。井川慶の車が練習場の敷地の中に入ってきたのは、待ち合わせの時間から15分程度送れた頃だった。想定内の遅刻だったが、そんなに悪くない。30分は遅れてくるのだろう、と思っていた。駐車場で暇を潰していた15分がやけに短く感じた。
車を降りてきた井川は白いバットを持っていた。ロゴマークの横に“K29”というイニシャルが入っている。彼が阪神時代から使っている超軽量バットだった。
「実家に寄ってから来ました」
井川はそう言った。大洗町経由? だとすれば、普通に自宅から直行していたら定刻通りじゃないか。遅刻常習犯にしては、やけに時間通りじゃないか。
「……頑張ってますよぉ」
早起きしている、という意味である。
「まぁ、毎日練習してますから、(夜になったら)自然と眠くなりますし」
その日の井川は、いつもより少し早起きして、自宅から実家に向かった。しかし、なぜバットなんか必要だったのだろう。
「今日はしっかり打ち取ります」
遅刻常習犯の言うことは、意味不明である。
「プロですから、打たれるわけにはいかない」
ああ、そういうことか。Gamer=遊び人の血が騒いだわけだ。
ことの発端は、とある自主トレ参加者のふとした発言だった。
井川の自主トレーニングに、阪神タイガースの岩田稔や千葉ロッテの田村領平、それに女子プロゴルファーの青山加織や原江里菜が参加しているのは、すでに新聞等で報じられていた通りである。しかし、岩田や田村はともかく、女子プロゴルファーたちはランニング・メニュー終了後の「本気の」キャッチボールに参加することは出来なかった。彼女たちは余ったグローブを持ち出して、やはり「本気の」キャッチボールには参加しない添田隆也トレーナーらと「遊びで」キャッチボールをしていたが、どうも元気が有り余っている。そこで彼はこう言った。
「……バット買ってこようか?」
最初、井川はその輪から外れていた。しかし、いつも意外なところで(?)サービス精神を発揮する人である。彼は自らバットの提供を申し出ただけではなく、「ガチンコ対決」まで宣言してしまったのである。
遊びたかったわけではない。ただ、気分転換が必要な時期に来ていた。1月下旬のその日、彼の疲労は一つのピークに達していた。肉体だけの疲労なら、添田トレーナーの絶妙な手綱加減で何とでもなった。しかし、12月から始まったトレーニングもそろそろ佳境に差し掛かっていた。張り詰めた気持ちを少しだけ緩める、気持ちの変化が必要だった。
「あーっ、どうしようかなーっ」
トレーニングに向かう道すがら、井川は喜色満面だった。
「勝ったら、何おごってもらおうかな?」
モチベーションは急上昇中である。
毎年、オフになると、井川は添田トレーナーと「これから」について話し合う。
これからの数ヶ月間、どんな風にトレーニングをやっていくのか。何を目標に、どれだけのことを、いつまでやっていくのか。
「今年はとりあえず、いつもよりも早く肩を作っていこうということでした」
と添田トレーナー。井川にとってメジャー挑戦初年の最初の難関は、「いつ投げられるようにするのか?」だった。阪神時代はキャンプ中に徐々に仕上げていけばよかった。日本より半月遅れて始まるメジャーのキャンプを考えた時、別段、急ぐ必要はないと思われた。
「肩を作る、と言っても、投げるだけじゃなくて、インナーマッスルを鍛えるとか、そういうことについても去年は遅れていたから」
と井川。結果的に出遅れた。シート打撃登板、オープン戦登板、限定された球数とイニングの中で、彼は調整遅れとなった。
「同じ失敗はしたくないから」と言う井川の言葉通り、12月に帰国後、オフの自主トレーニングを開始する中で、すでに肩を作る作業も行われていた。具体的には早めにピッチングが出来る状態にし、オープン戦に入った頃にはほぼ100%に近い状態で投げることだった。そうすることで厳しいと見られている“開幕メジャー”に一歩でも近づく。オープン戦でも、早くから結果を残す。目標は明確だった。
「うん、まぁ、どこで投げようともやることは一緒なんですけどね」
一緒ではない。マイナーという環境に身を置くことの厳しさは、あなたが一番よく知っているはずじゃないか。
「あれはあれで、経験しておいて良かったんだと思いますよ」
ON世代の残党は、そこで少しイラっとする。もっと欲張れよ、今年は死ぬ気でやる、と言ってみろよ、と。
もとより井川の2008年予報は、かなり厳しかった。
1月の時点で、ニューヨークの地元紙やアメリカの野球専門誌、各種ウェブサイトなどで今季のヤンキースの戦力分析欄を覗けば、彼の名は概ねこういう順序で載っていた。
1 王建民 19勝7敗 防御率3.70
2 アンディ・ペティット(L) 15勝9敗 防御率4.05
3 フィル・ヒューズ 5勝3敗 防御率4.46
4 マイク・ムシーナ 11勝10敗 防御率5.15
5 ジョバ・チェンバレイン 2勝0敗1セーブ 防御率0.38(すべて救援)
6 イアン・ケネディー 1勝0敗 防御率1.89
7 井川 慶(L) 2勝3敗 防御率6.25
先発ローテーションは通常5人だ。それより二人も多い。その末席に井川の名がある。
王、ペティット、ムシーナの三人は実績充分で、故障さえしなければローテーションは確実な選手たちだ。この手のDepth Chart(陣容予想)は希望的観測が含まれているもので、ヒューズやチェンバレイン、ケネディーらの新鋭にはその媒体の“期待感”のようなものが込められている。昨春の井川がそうだった。しかし、二度に渡るマイナー降格を経た今季、彼はすでにメジャーでの実績を持っている3人とまったく同じ土俵で競争しなければならない。
「自分は救援には向いてないと思う。日本でもやったことがあるけどうまくいかなかった」
と本人が言う以上、救援投手としてのメジャー入りはない。
つまり、このキャンプ中に先発に転向するチェンバレインや、メジャーでの大ブレイクが期待されるケネディーと競争し、勝ち残らなければ開幕メジャーはないということだ。
厳しいシーズンが予想されるからこそ、取材者は変化が見たい。目に見える変化を目撃すれば、原稿を書くのも簡単になる。ところが井川はそういう普遍的で単純な物語をぶち壊すのが得意な人である。
「ハイ! ハイ! ハイ! まだ行ける! まだ行ける!」
井川の声が青空の下に響く。無人の陸上競技場。普段はボールを投げたり打ったりしている者たちの、無言の足音だけがする。
「人格、変わっちゃいましたね」
と誰かが言った。
井川くんの?
ハイ。去年はあんなに声出してなかったと思います。
他人の練習を煽るのは去年からのことだろ? 性格的に「SかMか?」という笑い話の中で、ケイ・イガワが“どM”なのは有名だし。
いやでも、何となく。今年は何だか皆を引っ張ってくれてるようで。
「変わってないでしょ。別に」
とは井川本人の弁だ。「引っ張ってくれている」という他者のコメントは褒め言葉だが、そういうことを言われると実に素っ気無い反応になる。しかし、確かにこのオフの自主トレーニングではよく声が出ていた。去年は我関せず、という感じだった。やるならやれば? やれなくてもいいんじゃないの? そういう淡々とした―ある意味では彼らしい―トーンだった。
ところが今年はかなりちょっかいを出してくる。ウルサイぐらいだ。
「んー、まぁ、場が盛り上がればそれでいいんじゃないですか?」
かつての孤独な求道者は、そう言って口元で笑った。
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