頭上からぶら下がったペットボトルの中に、サインペンと野球カードが入っていた。典型的なボールパークなら観客席がダッグアウトと同じ高さにあるので、ファンが手渡しで選手たちにサインを頼むことが出来る。しかし、ポータケット・レッドソックスの本拠地ではそれは不可能だ。なぜなら、マッコイ・スタジアムの一般観客席が日本の地方球場のように最前列がダッグアウトの真上にあるからだ。ここでは全長2メートルあまりの紐の先に、大きく穴の開いたペットボトルを吊るしておくのが常だった。
「これって何だか……魚釣りじゃあるまいし」
練習を終えてダッグアウトにやって来た井川が、ペットボトルを軽く小突いてそう言った。
選手たちはそれぞれが吊るされたペットボトルの中に自分の野球カードを見つけ、自主的にサインをする。礼儀というよりは、それがロードアイランド州ポータケットにおける野球ファンの流儀なのだろう。
“Keeei! Could you please give me your autograph?”
井川の頭上から地元ファンの声がした。
「日本語、勉強しろーっ!」
彼はそう言いながらも、吊るされたペットボトルの中からサインペンを取り出し、それを素早くカードの上に走らせた。
「ナニ言ってるのか、さっぱり分かんねーぞーっ!」
ベンチに腰を下ろし、なぜか彼は自信満々にそう言った。
ボールパークにやって来るファンの多くは、必死にサインを求める。しかし、彼らが選手の顔をきちんと覚えているかどうかは怪しかった。井川のチームメイトであるマット・デサルボなどは「同じ人から何度もサインを頼まれる。こっちの顔なんて覚えちゃいない」とボヤいていた。
「ここはスクラントンよりはマシだけどね。あそこじゃファンが駐車場まで入ってきて、車の周りを囲んでしまう。仕方ないからサインをしようとしたら、ボールにはすでに自分のサインが書かれていたなんてこともあるんだ」
専門誌の有望株リストでは無印ながら、メジャーの先発ローテーションを狙える存在にまで成長したBig Surprise=穴馬をファンは見逃さない。少なくともそれを生業としているコレクターにとっては、放っておけない存在である。
それはメジャー一年目という特殊な価値を持っている井川に対しても同じだった。
「サインする場所やペンの色で、売り物になるか、ならないのかが分かれるらしいですよ」
と井川。その辺りの事情は随分と詳しい。
「いろいろと勉強させてもらいました。『スウィートスポット(もっとも縫い目が詰まっている部分)にしてくれ』なんていってくる連中もいますからね」
本拠地だろうが敵地だろうが、どこへ行っても、「Kei!」と呼ばれる。ポータケットではたどたどしい日本語で「イガワサーン」とサインを求められることもあった。
「(日本語は)分かんなかったですね。一斉に名前を叫ばれるからよけいになに言ってるのか分からない」
英語が分からない、とは言うものの、慣れたのは確かだった。
「コーチの言っていることとかは、日本とそう変わらないので何となくは分かります。でも、あとは馬鹿みたいなことばっかり言ってるだけだし、英語が分かるようになったとは思わないです」
なるほど、試合前だろうが後だろうが、控え捕手のラウル・チャベスや三塁ベース・コーチのアルバーロ・エスピノーザは、ことあるごとに井川に話しかけてくる。井川が言うような「馬鹿みたいなこと」を言うために、である。
「メジャーではあり得ないことばっかりです。大体、試合中なんか、自分が一塁ベース・コーチとかやっているぐらいですからね」
と井川。登板しない日の試合中、先発投手が一塁のコーチャーズ・ボックスに立つ。マイナーではよくあることだ。
「『おまえ、暇だから行けよっ!』……みたいな感じでね」
もっともこの日、8月31日の夜に彼が一塁ベース・コーチになることはなかった。なぜなら、この日は彼のレギュラーシーズン最終登板日だったからだ。
マイナーリーグのシーズンはアメリカ版勤労感謝の日、すなわち9月の第一月曜日のLabor Day(レイバーデイ)で終わる。すでにインターナショナル・リーグ北地区の優勝を決めていたヤンキースにとっては、完全な消化試合だった。すでに井川のプレーオフ登板も、その日から中五日となる敵地での第二戦と決まっていた。
「スクラントンがプレーオフに勝ったら初めてらしいです」
マイナーと言えども、優勝への意気込みはあるらしい。
「まぁ、スティーブン(ホワイト 第一戦の先発予定)がやってくれるでしょう」
他人任せかよ、と突っ込みたくなるが、それは彼独特の冗談だった。
メジャーリーグのロースター(出場選手登録枠)は通常25人である。
しかし、マイナーリーグのレギュラーシーズンが終わる9月上旬に合わせて、それが最大40人まで広がる。もちろん、40人の選手が常にメジャーリーグにいるわけではない。マイナーで優秀な成績を残した者、メジャーリーグが必要とする選手だけが招集されることになるのだ。
8月中旬から下旬にかけて、ニューヨーク・ヤンキースは酷使されてきた救援投手陣の補強のために、すでに左腕ショーン・ヘン、エドワール・ラミレス、ブライアン・ブルネイ、クリス・ブリットンの四人をスクラントンから昇格させていた。前半戦の大きな弱点だった先発投手陣は久しく安定しており、井川が呼ばれる要素は皆無だった。
「……どうなんすかね。まぁ(メジャーに)上がっても上がらなくてもいいですけどね」
と井川。誤解を呼びそうな爆弾発言だ。
「上の状況を見たら分かりますしね。こっち(マイナー)のシーズンが終わってメジャーに上がっても、先発で投げることはまずないだろうし」
それはそうなのだが、メジャー屈指の高齢な先発投手陣だ。誰かが故障して緊急出動ということも有り得る。
「自分は一番最初に呼ばれる人間ではないですから。他にも投げられる選手はいっぱいいる」
その通りだった。王建民、アンディ・ペティット、ロジャー・クレメンス、マイク・ムシーナ、フィル・ヒューズというメジャーの先発ローテーションに加え、スクラントンには井川のほかに、ジェフ・カーステンズ、イアン・ケネディー、マット・デサルボ、スティーブン・ホワイトらが待機していた。
その日の夜、メジャーリーグから招集される選手が決まる。そんな日に井川が登板したのは奇妙な偶然だった。
ヤンキースがそうであるように、レッドソックスにも翌日に昇格を控えたメジャー予備軍がひしめいていた。
リードオフマンのジェイコビー・エルスブリーは、専門誌の有望株リストで松坂大輔に次ぐ2位の評価を得ていた俊足巧打の外野手だった。ヤンキースのジョニー・デイモンそっくりの打撃フォームをしていることもあり、「デイモン二世」などと呼ばれていた。3番のジェッド・ロウリーは同ランキングの14位だったが、メジャーで活躍中の新人王候補ダスティン・ペドロイアに匹敵する逸材という評価をされていた。4番のクリス・カーターは元ダイヤモンドバックスの有望株ランク17位の一塁手だった。レッドソックスが8月下旬に控え外野手のウィリー・モー・ペーニャを手放した時に獲得した選手で、移籍時にはAAA級パシフィック・コースト・リーグで最多安打(126試合163安打)を記録していた。
他にも5番ブランドン・モス、7番ボビー・スケールズ、8番ジョージ・カッターリス、9番チャド・スパーンらが有望株ランキングに名を連ねていた。
「マイナーの選手はかなり分かってきたけど、それもバッファローとかロチェスターとか、よく対戦しているチームばっかりですからね」
と井川。当然、初対決となるポータケット打線に印象などあるわけがない。
「さっぱり分かんないです」
そう言いながら、井川は夏休み最後の週末、超満員のマッコイ・スタジアムのマウンドに立った。それは彼にとって、AAA級マイナー通算11試合目となる登板だった。
ブルペンでの井川は、いつもと変わらず自分のペースで投球練習を続けた。全球種を両コーナーに投げ分け、最後は軽いキャッチボールで戦闘体制に入る。
「適当に終わることもありますけどね」と井川。準備段階ですべてにおいて満足することはない、という。
「……時間とか、いろいろあるので、いつでも納得するまで投げてるわけじゃないんです。むしろ適当だと思います」
それでも普通のアメリカ人よりは時間がかかっている。それはつまり、マイナー降格以来の我流がシーズンの最後まで貫き通されたということだ。
「それはもう、いつもと変わりなく……です」
ただ……と井川は言葉を繋いだ。
「やっぱり、ここに来て少し疲れも溜まっているし、いろいろやってはいるんですけど、(疲労が)抜け切れない」
月に一度は日本からやって来る添田隆也専属トレーナーの治療を受けることになっているが、日本では登板前にそれをやっていたのだから違いはあって当然だ。
「まぁ、今年はずーっとこうしてやって来たから、今さら何を言っても仕方ないですけどね」
適当な準備と蓄積された疲労。一回裏のマウンドに向かう井川のうしろ姿に、交わりそうで交わらない二つの言葉が交錯していた。
チェンジアップのレベルアップがマイナーでの井川の課題の一つだとしたら、それはこの試合でも達成されていた。たとえば初回、1アウト後にメジャー経験も豊富なベテランの2番ロイス・クレイトンを迎えた場面がそうだった。
井川はクレイトンを速球で2ストライクと簡単に追い込んで、チェンジアップで三球勝負に出た。ファウルで逃れられても彼はさらにチェンジアップを連投。最後は時速91マイルの速球で空振りの三振を奪っている。
「相手がどうとかは、今はまったく考えてないですね……っていうか、相手をまったく知らないから考えようがない。キャッチャーのサイン通りに投げているだけです。(チェンジアップが)良くても悪くてもサインが出るから、良い練習にはなっていると思うけど」
たとえば2回1死走者なしの場面。右打者の6番ジェフ・ベイリーに対して初球から速球を二球続けてボールにした井川は、ここでチェンジアップを投げた。相手打者が高い確率で速球を待っている場面での、相手の裏をかく配球だった。しかし、結果は良くなかった。チェンジアップが外れたこともあってベイリーを歩かせた井川は、2死1塁から8番カッターリスにタイムリー二塁打許してしまったのである。
「今日は真っ直ぐが右バッターの内へはきちんと決まっていたんですけど、そういう時に限って、なぜか外のボールも内に入ったりする。あの一球も外を狙ったのが真ん中の高めに入ってしまいました」
ただし、メジャーでならスライダーか速球を投げていたような場面でのチェンジアップ投入は、マイナーリーグが選手育成という本来の機能を果たしていると実感させる出来事だった。投手が投げるボールの精度を欠けば、打者が付け入る隙は大きくなるが、今の井川にとって大事なのは、精度を上げることではなく、結果を怖れずに明確なプランに沿ったピッチングを遂行することだった。
この日の井川が苦しんだように見えたのは、結局、先制点を許すきっかけとなった2回の四球を出した時だけだった。4回には2ランホームランで追加点を許してしまうが、それは彼が追い詰められて許した失点ではなかった。
「ホームランはいいコースに投げたつもりなんですけど、何だかパカーンって打たれちゃいましたね」
と井川。いいコース、と彼が言ったのは、同じバッターがその前後の打席では同じコースの速球にまるで手が出なかったからだ。
「ただ、あそこはランナーがいたんでね……2アウトだったし、結果的には少しもったいなかった。全体的にはまぁまぁだったと思いますけど」
ストライクが先行し、カウントが有利になれば投手が打者との1対1の対決を制する可能性は高くなる。井川はこの試合で、18.44メートルの距離を置いて打者と対峙しながら、ほとんどの場面でその戦いを優位に進めていた。
結局、この日の彼は7回5安打3失点、奪三振9個、与四球二つと、持ち味を存分に発揮した。
もっとも大事なことは、全101球の内、71球がストライクだったことだ。
「メジャーとマイナーの一番大きな違いは、バッターが振ってくるか振ってこないかですよ。メジャーだと待ってくる選手は多いけど、マイナーはほとんど初球から振ってくる。だから、ボール球に手を出してきたりとかして助けられることも多いんです」
つまり、井川の中ではマイナーでの好投は勘定の内に入っていない。まったく評価していないわけではなかったが、彼の中では本来彼がいるべき場所での成績ではなく、それほど大きな意味を持っていなかったのだ。
クラブハウスの入口で井川を待っていると、その夜の先発メンバーだった一塁手のダグ・ミンケイビッチやアルベルト・ゴンザレスがチームメイトに別れを告げていた。彼らは先発の一角を担う予定のケネディーと共に、9月1日付でメジャーリーグに昇格すると告げられたばかりだった。
反対側のクラブハウスでも、レッドソックスの有望株たちがチームメイトに別れを告げていた。その日、登板する予定だったクレイ・バックホルツは、翌日、メジャーで先発することが決まっていた。井川と対戦したばかりのエルスブリーやモス、クレイトンといった野手組もメジャーに召集されていた。
最初から分かっていたこととは言え、取り残された形となった井川は、その夜、ホテル内のレストランで夜食をとった。
「今、(シーズンが)終わっちゃってもいいんですけどね」
またまた爆弾発言である。しかし、そこにはメジャーに上がっていった同僚たちに対する嫉妬や不満はまったくなかった。
「そりゃ、(メジャーで)投げさせてもらえるんだったら、1試合でも多く投げたいですけど、今の状況で自分は戦力として数えられてないでしょうから」
先を読みすぎだろ、とは言えなかった。つべこべ言わずに全力を尽くせ、というのも正しくない。なぜなら、マイナーにいるほかの野球選手も、似たような考え方をしていたからだ。
「メジャーに上がってもリリーフしか有り得ない。僕が先発になるとしたら怪我人が同時に何人も出た時ぐらいだろうな」
そう言ったのはスクラントンの先発ローテーションの一角を占めるカーステンズだった。実は4月に打球を当てて井川に先発の座を譲った時も、彼は同じようなことを言っていた。少ないチャンスを確実にモノにしなければ未来はない。常勝軍団ヤンキースでプレーする若手選手に共通する思いを、彼もまた持っていたのである。
自分の未来を冷静に判断していたのは、カーステンズだけではなかった。同じ先発投手のデサルボも異口同音に同じことを言っていた。
「長くこの世界にいたら、周囲の状況がより良く理解できるようになる。ビジネス上の決断というのは僕ら若手選手にとっては避け難い現実なんだ」
誤解しないで欲しいんだけど、と彼は言葉を続けた。
「だからと言ってモチベーションが下がることはないよ。ヤンキースでチャンスがなくたって他のチームでチャンスがあるかもしれないんだし、いつでもネット裏には他球団のスカウトが来ているわけだから、無様なピッチングは出来ないんだよ」
そのことを、きっと井川自身も分かっているのだろう。
8月1日、前日より少し選手の数が減ったグラウンドで、彼はいつもと変わらず外野の芝の上を走りこみ、ブルペンでは投球フォームの矯正に励んでいた。
「やることは何も変わってないですよ」
井川は言った。その表情は明るかった。
「ただ、今は投球フォームについても、実はそんなにうるさく言われていないんです」
もちろん、ブルペンに入って練習を始めると、投手コーチのギル・パターソンが付きっ切りで井川を見守ることになる。
「彼(パターソン)は、元々ここのコーチじゃないんです。AAAの投手コーチがメジャーに行っちゃったから、代わりにここにきた」
両者の間にどれほどの信頼関係があるのかは分からなかった。
しかし、彼らは「今の経験を未来に繋げる」という共通認識を持っていた。
![]()
![]()