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●KQUEST COLUMN 2007

KQUEST 第五回 Start Again -2-


 サンフランシスコ・ジャイアンツのリードオフヒッターは、デイブ・ロバーツだった。
 母親が日本人で沖縄生まれのロバーツは、2004年、レッドソックス時代にヤンキースとのプレーオフで活躍したことでよく知られた選手だった。
 活躍と言っても、それはたった一つの盗塁を成功させただけのことだった。
 しかし、それが0勝3敗で迎えた第四戦の9回裏、1点差で負けていた場面でのことで、しかも、同点のランナーだったことが、彼を生ける伝説にした。
 ヤンキースの守護神マリアノ・リベラから奪ったその盗塁は、彼が次打者のタイムリーヒットによって同点のホームを踏んだことで、メジャーリーグ史上初となるポストシーズンでの3連敗からの4連勝を生んだターニング・ポイントとなった。ヤンキースを下したレッドソックスが、ワールドシリーズでも勝って86年ぶりの優勝を決めた後、ロバーツの盗塁は文字通りの「世紀の一瞬」と認識されるようになったのである。
 そのロバーツに対し、井川は初球から速球を連投した。仕留めたのは1ストライク2ボールからの4球目、外角低目を狙ったファストボールだった。
「カウントを悪くしていたので、一瞬、見てくるのかなと思いましたけど」
 と試合後の井川。
「こっちのバッターは、基本的にはああいうカウントでも待たずにあんな風に打ってくれるんで。……狙ったところにも行ってなかったのに」
 狙ったところ=外角低めを目掛けたのに、胸元へ行ったそのファストボールは、しかし、その打席ではもっとも速く感じられた。
 井川のメジャー復帰第一線は、俊足のロバーツをセカンド・ゴロに打ちとって始まったのである。
 

 自分流のウォーミングアップを行った井川の立ち上がりは、上々に見えた。
 1アウトの後、彼はロバーツ同様、俊足の2番ランディ・ウィンを見逃しの三振に打ち取り、3番ダームもサードゴロに仕留めて、わずか12球で初回を終えた。
「開幕の頃に比べれば調子は良くなっています。今がピークというわけではないですけど、マイナーでしっかり自分の調整法をしましたから」
 アメリカ流から自分流への変更について、井川はヤンキースのコーチ陣からの異論は「特になかった」と言った。
「自分のやりたいようにやって、メジャーに戻ってくればいい、っていうのがマイナーに落とされた理由ですからね」
 ただし、井川が自分流を確立するまでにまったく格闘がなかったかというと、そうではない。
 井川にとって未知の世界だった中四日の登板間隔は、キャンプの時から「いつ本格的な投球練習を行うのか?」という一つの疑問を置き去りにしていた。
 普通、メジャーでは中四日の時には、その二日目に軽く投げ込みを行う。軽い投げ込みと言うのは、それが10分程度で終わってしまうからだが、日本では中四日の登板自体が希にしか起こらない上に、登板間隔が中5日から6日はあるので、登板の合間に投球練習を二回行うこともある。  一回に投げる球数や時間も、アメリカに比べれば多いし、当然、時間も長い。
「自分の場合、あんまり投げ込みっていうのはしなかったけど、それでもこっちの選手がやっているよりは投げていたと思う」
 井川にとっての問題は、球数や時間ではなく、投球練習そのものをいつやるのかということだった。
 

 日本にいた頃、井川は登板日の前々日に投球練習を行っていた。中四日のメジャー流に合わせると、それは通常、投球練習が行われる二日目ではなく、三日目にあたる。それが日本の調整法であり、阪神時代の彼のやり方だった。
 従ってマイナーに降格した井川は、調整法こそ自分の好きなようにやらせてもらえたものの、投球練習の日だけは自由に選べなかった。
「一日しか休みがないと、回復には充分な時間ではないから、というのがその理由でしたね」  と井川。しかし、彼は完全に自分流のスケジュールを諦めたわけではなかった。とりあえず指導者側のやり方に合わせてみるが、それに違和感を持つならば遠慮なく言い続ける。そんな方法で彼は自分のやり方を主張していったのだ。
「結局、そこも(登板する)二日前に戻しました。試合の三日前に投げるのは日本にいた時もやってみたことがあるんですけど、実際にうまくいったことがないので、それ以上やっても結果は変らないだろうなと思っていましたから。AAAに上がってから、とりあえずもう一回、三日前に投げてみて、『駄目だったら好きなようにやっていい』って言われたんで変えました。まぁ、結果が駄目だったわけじゃないんですけど」
 井川が変えたのは投球練習の日だけではなかった。
 野手の打撃練習の球拾いだけで終わってしまうこともある全体練習に付き合っていると、走る時間やウェイト・トレーニングの時間もなくなってしまう。そこで彼は、誰よりも早く球場に姿を現すことでその時間を作っていった。彼がサンフランシスコでも他の選手たちより2時間近くも速く球場に行っていたのは、経験則に基づく調整法をメジャーでも貫いていた証だった。
 

 ヤンキースタジアムは往年のホームラン王にあやかって「(ベーブ)ルースの建てた館」としてよく知られている。ならばサンフランシスコのAT&Tパークは「ボンズが建てた館」と呼ぶべきなのかも知れない。
 バリー・ボンズ……今さら説明不要のホームラン王である。
 2001年に彼が打ち立てたシーズン72本の本塁打記録は、1998年にマーク・マグワイアがそれまでの61本(1961年に当時ヤンキースのロジャー・マリスが記録)を10本以上も更新する驚異的な数字だった。
 ただし、ボンズがキャリア通算歴代2位のベーブ・ルースの本塁打数(714本)を抜いた頃から、彼の記録には暗雲が立ち込めるようになった。
 それは2002年の冬に、サンフランシスコ近郊の補助食料品会社BALCOを中心とした米スポーツ界のステロイド騒動が起こり、同社のクライアントの一人だったボンズにも疑惑の目が向けられたからだ。
 それ以降、例えばメディアはボンズの今と昔の写真を交互に並べて、どれぐらいボンズの体格が変ったのかと書き連ね、頻繁にホームラン記録とステロイドを結びつけるようになった。
 しかし、薬物疑惑が真実であれ、虚偽であれ、ボンズがメジャー屈指のスラッガーであることに変りはなかった。彼は井川が対戦した時点でキャリア通算748号本塁打を記録しており、ハンク・アーロンのメジャーリーグ記録(755本)更新へのカウントダウンはすでに始まっていた。
 井川とボンズの対決が実現したのは、2回裏のことだった。
 

「記録のこともあるし、ホームランを打ちたいんだろうなとは思っていました」
 ボンズとの対決について質問すると、井川はそう言った。
「だから、真っ直ぐを狙ってくるんだろうな、真っ直ぐを打ちに来るだろうなと思っていましたね」
 対左打者に対した時、井川は外角へ逃げていく球種、つまり、スライダーを投げることが多い。強打者を相手にした時は膝元へのチェンジアップを勝負球に持ってくることもある。問題はそこへ至るまでのプロセスだった。
 井川はあえて速球勝負に出た。 「変化球で打ち取るにしても、真っ直ぐを投げないと駄目ですから」
 駄目ですから、というのは効果がないという意味だった。
 力で押して、押して、そこで引いてみるか、あるいはさらに押してみるのか。それはいつだったか、井川自身が語った彼のピッチングの本質だった。
 ただし、速球を投げるにしても、希代のホームラン王との対決ではただ漠然と投げるわけにはいかない。井川はボンズへの初球、左のスラッガー攻略の定石でもある内角高目、つまり、一番バットが出にくい場所を狙った。
 それはわずかに外れてボールと判定されたが、ボンズには井川が発したメッセージが充分に伝わっていただろう。
 二球目、井川は再び同じコースへ速球を投げ込んだ。
 今度はストライクだった。当然、ボンズは渾身の力を込めてそれを振り抜いた。しかし、それはおそらく、彼が思っていた以上に切れがあった。
 井川がボンズへ投じた第二球は、ファウルとなって内野スタンドに突き刺さった。
 勝負球は三球目だった。一球、二球と力で押し続けた井川は、そこで初めて引いてみた。外角へのスライダーである。
「気持ちが真っ直ぐに行ってたんじゃないですかね」と井川。
 ボンズはそれを引っ掛けて、力のないセカンド・ゴロに倒れた。
 

(次号に続く)

 

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