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●KQUEST COLUMN 2007

KQUEST 第四回 Ain’t no use crying(後編)

 

 タンパでの最初の数日間、井川は二、三日先のスケジュールさえ白紙のままで練習し続けなければならなかった。
「今の自分って、なんか中途半端ですよね」
 宿泊先のホテルの広間で、井川はそう言った。
「タンパにいるけど、タンパ・ヤンキースの一員ではないし、マイナーにいることになっているけど、登板する日が決まっているわけでもない。コーチからは次のブルペンで良かったら試合で投げることも考えていくというようなことも言われましたけど……」
 ブルペンで良かったら、というのは、投球フォームの矯正がうまくいったら、という意味だった。しかし、井川はそのアイディアに心底納得していたわけではなかった。
「あんなフォームでは投げられない」
 と井川は言った。
 投球フォーム矯正のポイントは極めてシンプルだった。上げた右足を真っ直ぐ前に踏み出すことである。
「日本でも久保さん(阪神タイガース投手コーチ)に言われてやってみたことがあるんです。やってみたけど、結局、うまく出来なかった。自分の場合、上げた足を一回横に伸ばしてから踏み込んでいく。捻るという意識よりも溜めを作りたいからそういう投げ方になる。でも彼ら(コーチ)が言うのは、そうじゃなくて真っ直ぐ前に踏み出せば力のロスが少なくなるのではないかってこと。上げた足をそのまま下ろした方が、力も伝わり易いのではないか、と」
 つまり、理論上は納得していたのだ。
「効率が良いのはその通りかもしれないけど、それができるかどうかは別問題だから。これは推測ですけど、そういう投げ方は上体が強いからできることなんじゃないかなと思う」
 マイナーに送り込まれた初日、井川はクラブハウスでコーチからビデオを見せられた。それはメジャーリーグの投手たちの投球フォームを分析するためだった。
「『皆、こんな風に投げているんだぞ』という感じでしたね。でも、それは全員こっちの人(メジャーリーガー)だから。日本人のピッチャーに下半身で溜めを作って投げる自分みたいなフォームが多いのは、体の作りが違うからでしょう。アメリカ人の歩幅は狭いし、それに合った投げ方になっている」
 タンパで記者会見に応じた井川は、投球フォームについて問われる度に「試合で投げてみないと分からない」と繰り返していた。それは提案された新しい投球フォームが自分に合うのか合わないのかということを、実戦でコーチに示さなければならなかったからだ。
「自分らしさを取り戻すためには、とにかく試合で投げることです。試合で投げるチャンスがないと、調子がいいのか悪いのかも分からないから」
 少なくとも5月12日の時点では、井川にはそのチャンスが与えられていなかった。

 投球フォームの矯正は、井川の成績を安定させるものなのだろうか。
 その疑問が消えない理由は、彼のマイナー降格を決定付けた5月4日の対マリナーズ戦での二本の2ランホームランにあった。それらはいずれもストライクが欲しいカウントで、ボールになるのを嫌って「置きにいった」球だった。エイドリアン・ベルトレーにはフルカウントからの高めのスライダー、ホゼ・ロペスには1ボールナッシングからの真ん中低めのファストボールである。
 いずれもコントロール・ミスだった。そして、それは今季の井川を象徴するような失投だった。
「日本とメジャーの打線で一番違うのは、メジャーでは下位打線でもパワーがあるってことじゃないですか。クリーン・アップは日本でもいいバッターが揃っている。でも、マリナーズの2番とか9番とかは日本では有り得ないパワーだった」
 失投を打たれるのは日本でもメジャーでも同じ。阪神時代にも井川は「置きにいった」球を打たれることが少なからずあった。しかし、そのダメージはメジャーの方が遥かに大きい。ましてやメジャーリーグのバッターは概ね勝負が早い。日本野球のセオリーから言えば、じっくり待って様子を見たいような場面でも、初球から積極的に振ってくる選手が多い。様子を見ようとボールを置きにいった井川と、どんな球でも振ってやろうと待ち構えるメジャーリーガー。後者に軍配が上がり続けたとしても、そんなに不思議なことではない。
 果たして、駆け引きを楽しむような井川のピッチングは通用するのだろうか。
「自分の場合、速球で空振りが取れるわけではないので、自分ぐらいの球だとバットに当てられる。でも、速球でファウルに取れれば、チェンジアップも活きてくるからそれでいいんです。カウントを稼げますし、そうなると自分が有利になる」
 カウントが有利になれば、ストライクを取るために「球を置きにいく」ことも少なくなる。しかし……。
「マリナーズの2番は、後から聞いたらクリーン・アップを打てるような選手だったと。デビルレイズの1番も、一番バッターのイメージとはちょっと違っていたし」
 マリナーズ戦で対戦した2番打者ベルトレーは、2004年、25歳の時にシーズン48本塁打を記録している。デビルレイズ戦で対戦した1番打者ロコ・ボルデリは、本塁打こそシーズン16本が過去最高だが、ヤンキースの往年の名選手であるジョー・ディマジオの再来と呼ばれたこともある逸材だ。
 井川にとっての切実な問題は、彼がまだ対戦相手の特徴を知らないという部分にあった。
 だが、それを知るまでの時間が今の井川にあるとは思えない。最初から最後まで全力で投げるわけにはいかないのなら、あとは「置きにいくボール」のコントロールの精度を上げるぐらいしか思い浮かばない。
「マイナーで投げるんだったら、しっかり結果は残したいと思う」
 井川はそう言った。
「それに結局、試合で結果を残せば、日本でもアメリカでも何も言われなくなると思う。コーチに言われたことはこれからも練習すると思いますけど、まずは試合で結果を残すことだと思う」
 周囲の環境に違和感があろうが、それが元で調整に失敗しようが、泣き言を言うのは許されない。それは国際舞台で活躍するサッカー選手や陸上競技の選手たちも同じだろう。アスリートだけではない。外国で普通に働く人々や日本で働く外国人も、周囲の環境や生活習慣の違いに悩まされながら、その国で生きる術を見つけ、なるべく自分が生き易いように変化していく。
 そうやってはじめて、その人は周囲から認められるようになる。その国で生まれた人々や、外部の人間に対して好奇の目を向ける人々から、リスペクトを勝ち取ることが出来るのだ。
 従ってこの国では、まだ誰も井川のことを認めていない。
 上っ面はともかく、誰一人、彼を本当の意味でリスペクトしていない。なぜなら彼は、まだこれから自分という野球選手を確立していく必要があるからだ。
「まぁ、じっくりやりますよ……これ以上、落ちることはないんだし」
 そう言って笑った井川が、マイナー降格後、初めて実戦のマウンドに立ったのは5月12日のことだった。


(文中敬称略)

 

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