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●KQUEST COLUMN 2007

KQUEST 第三回 Uncertain Smile (後編)

 

 メジャーリーグのストライクゾーンは、日本よりも広いと言われている。特にアウトサイドのボールは広いというのが定説だ。
 しかし、4月の終わり、井川はそう感じていなかった。
「セ・リーグよりも、ちょっと狭いんじゃないかな」
 井川はそう言った。でも、たぶんパ・リーグよりは広い、と彼は言った。
「逆球はほぼ間違いなく(ストライクに)取らないし、日本ではストライクに取るような高目もほとんど取らない。基本的にはキャッチャーの構えたところに行かなければストライクにはならない感じ。(メジャーは)外が広いというけど、それもキャッチャーの構えたところに行けば、じゃないですかね。審判によってもバラバラだし」
 それは実際にメジャーリーグで投げてみた者でなければ分からない問題だった。確かにメジャーリーグの審判は、キャッチャーがミットを構えた場所を基準にストライクとボールのジャッジを行うことが多い。インサイドに寄ったキャッチャーがアウトサイドへ外れたボールを捕りにいけば、当然、それはボールに見える。それに本来ならばルールブックに従って、構えたバッターの脇より下はストライクになるはずだが、メジャーリーグではボールとコールされることが多い。それは現役のピッチングコーチの多くが不満に思っている、紛れもない事実である。
 ストライクゾーンを把握しきれない中、井川にはもう一つのディスアドバンテージがあった。
「ボールを見てくるのか、バットを振ってくるのか予測がつかない。今はちょっと、メジャーのバッターのことを掴めない」
 日本のバッターとは違う、メジャーのバッターの傾向。全体がなく、均一化されていない、個性的な選手たち。デビルレイズ戦での4回3分の1を投げて8安打7失点という結末は、そういった小さな思い違いから生まれたのかも知れない。しかし、そういった些細な違和感の連続が、メジャーリーグであり、世界で戦うということのだろう。
 彼がよく知っている日本とは違う、異質なもの。
 それがベースボールであれ、生活であれ、そこで生き抜いていくためには、そこで成功していくためには、自分が適応していくしか道はない。
 井川にとっての問題は、どのようにして適応していくのか、ということだったが、ヤンキース首脳陣にとっての問題は、井川が先発投手としての指名を果たしていないというところにあった。
 彼らの決断は早かった。25日のゲームが雨で流れた直後、ヤンキース首脳陣は井川の次回先発登板、つまり、28日の対レッドソックス戦先発を回避すると発表したのだ。
 井川の制球難はメカニックス(投球フォーム)の問題に結び付けられた。26日のゲーム前にはセットポジションの姿勢をロン・ギドリー投手コーチから直されたが、本質的な問題は別にあった。
「たった一球のことなんです」
 と井川は言った。
「例えば1ストライク2ボールから、2ストライク2ボールになるのと1ストライク3ボールになるのは全然違う。一球ですべてが変わっちゃう」
 それが証明されたのは、まったくの偶然によるものだった。
 4月28日の対レッドソックス戦、井川は先発投手が大量点を奪われるなどして、早期降板した際の緊急事態に備えてブルペンに入っていた。通常のゲーム展開では登板することはなかった。ところがこの日、先発したカーステンズが、先頭打者の打球を右脚に受けて退場。急遽、井川が登板することになった。
 いきなり迎えた無死1、2塁のピンチに、井川は力のあるファストボールでレッドソックスの主砲デイビッド・オルティースを二塁ゴロ併殺に打ち取った。決して狙ったところではなかったが、オルティースは打球を打ち上げることができなかった。
 続くマニー・ラミレスには例の制球難が顔を覗かせて歩かせたが、続く5番J.D.ドリューはアウトサイドのファストボールで空振りの三振に打ちとった。
 井川は最初から、力いっぱい投げているように見えた。
 それはいささか不思議な光景だった。
 バランスを重視してセットポジションからの投球に徹した井川のボールは、しかし、メジャー移籍以来、一番走っているようだった。球を置きに行く場面がまったくなかったわけではないが、打者と駆け引きするのではなく、ただ、腕を強く振ろうとしているようだった。
 3回に迎えた1死1塁という場面でも、オルティースを再び二塁ゴロ併殺に打ち取った。今度はインサイドのファストボールだった。スピードガンの表示は時速92マイル(約148キロ)だった。
 この日の初球ストライクも、打者23人中11人に過ぎなかった。カウントが不利になったのも11回あった。しかし、立ち上がりからゲーム中盤の4回に至るまでの打者14人中10人に対して初球ストライクを取って、井川はゲームを作った。井川は1対1の対決を制し続けたのである。
「たかが一球、されど一球」。
 井川が言う通り、カウントが有利になると、彼は簡単にアウトを取った。反対にカウントが不利になると、簡単に歩かせた。この日も彼は4つの四球を与えた。しかも、その内の二つは5球以下で歩かせた。
 しかし、彼は結局、首位レッドソックスを6回2安打無失点に抑え、今季二勝目を挙げた。7回途中で降板した際には、地元ヤンキース・ファンが立ち上がって拍手をし、TV中継の番組が選んだ“本日の最優秀選手”にも選ばれた。
「今日は一人ずつ片付けていく感じだった」
 その日の夜、井川はそう言った。
「短いイニングのつもりだったので、最初から腕を振っていった」
 試合後、トーレ監督はカーステンズの足が骨折していたことを報道陣に打ち明け、井川の先発復帰を明言した。しかし、それは永遠に安泰であるという意味ではなかった。レッドソックス戦を含めて、メジャーで5回投げた内の2回だけがいいピッチングだったというのは、極めて不確かな結果だった。
「メジャーの打者の傾向とか、ストライクゾーンとかは、今年一年かけて知っていくことだと思う。ビデオとかも見ているけど、実際に投げてみないと分からないこともある」
 最初からなりふり構わずに思い切り腕を振るのか、それとも日本でやって来たように、ペース配分を考えながら力を入れたり抜いたりしていくのか。
 その素朴な疑問に一つの答えが出たのは、5月4日の対マリナーズ戦だった。

(終わり)

 

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