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●KQUEST COLUMN 2007

KQUEST 第三回 Uncertain Smile (前編)

 

 ヤンキースタジアムの外野を、井川慶は走り続けていた。
 彼は黙々と、止まることなく、無人のボールパークの中を走り続けていた。
 それは4月25日の午後のことだった。試合開始まではまだ3時間以上もあった。人気のない観客席に向かって声を上げれば、きっとそれはトンネルの中のように響き渡っただろう。遠くからは巨大な壁のように見えるライトスタンドの間際は、深く大きな影の中に沈んでいた。井川はその影に出たり入ったりしながら、ライトのポール際から遠くレフト側のポール際まで、何度も往復していた。
 メジャーリーグ開幕から間もなく一ヶ月が過ぎようとしていた。
 井川はその時点で、4試合に先発して1勝1敗、防御率は8点台に達しようかという数字を残していた。
 デビュー戦となった4月7日の対オリオールズ戦、それは井川や彼を応援する人々にとっては、勝っても負けても記念すべき登板になるはずだった。
 しかし、4月の終わりを迎えた頃、そんな感慨は跡形もなく消えていた。
 なぜなら、まだシーズンが始まったばかりだったとは言え、彼が「好投した」と言えるのは、メジャー初勝利を挙げた4月18日の対インディアンズ戦だけだったからである。
 チームが勝った状態でマウンドを降りた4月13日の対アスレチックス戦では、5回3分の1を投げて3失点(自責点2)と抑えたが、それも井川の中では極めて満足度の低いピッチングだった。
「ゲームを作れたとは言えないですから。それにまだ球を置きにいっている」
 アスレチックス戦に登板した翌日、井川はそう言っている。
 球を置きに行く、というのは日本独特の表現だ。
 全力投球ではなく、ストライクを取るためにコースを狙って投げる。
 阪神時代から井川は状況に応じて力に強弱をつけて投げてきた。
 例えばピンチに迎えた時の彼のピッチングには鬼気迫るものがあった。逆に下位打線をそのイニングの先頭打者として迎えた時などは、幾分、力をセーブして投げているように見えた。
 井川はアスレチックス戦を「球を置きにいった結果」だと言ったが、実はメジャー初勝利を挙げた対インディアンズ戦の後にも、同じようなことを言っていた。デビュー前、報道陣の前で「思い切り力んでいきたい」と語った井川だったが、好投したと見られているゲームでさえも、そんな彼の姿は見られなかった。

 メジャー・デビュー戦、たった6球で2アウトを取った立ち上がりは順調に見えた。ところがオリオールズの3番打者マーカキスにレフトスタンドまで弾き返された。
「(いきなりホームランを打たれて)ペース狂った? んー、どうですかねぇ。ストライクが狙った時に入んなかったのはきつかったですけど」
 と井川。2ストライク・ナッシングと追い込んでから、3球連続ボール。フルカウントとなってしまうとそれ以上ボールは投げられない。従ってこの6球目のスライダーは、長身マーカキスの長いリーチが届く範囲内のコースに投げざるを得なかった。
 デビュー戦で初球がボールになったのは打者28人中17人。カウントが不利になったのも同じ数だけあった。日本のようにじっくり見てくる打者が少ないメジャーでは、ボールが先行するのは命取りだ。2回に連打と四球を与えて4失点した井川は、4回にも四球を出した後、2番メルビン・モーラに2ランホームランを喫している。
「あれは仕方ないです。置きに行った球ですから」
 打たれた原因も解決法も明らかだったが、結果は消し去ることが出来ない。
「結果については、まぁ全然、想定内ですけどね。ボールが先行するとピッチングが自分のペースにならないんで、こういう結果も当然かなって感じです。カウントさえ有利にしちゃえば、ボールを置きに行かなくても済むんで。しっかり自分のペースに持っていければ、充分やっていけるかなって思います」
 しかし、デビュー戦の5回8安打7失点という数字は、後々、否定的な意味を持つようになってくる。

デビュー戦5回8安打3四球2奪三振7失点
第 二 戦5回3分の13安打2四球3奪三振3失点(自責点2)
第 三 戦6回5安打1四球5奪三振2失点
第 四 戦4回3分の18安打3四球3奪三振7失点

 メジャー四戦目となった対デビルレイズ戦は、ストライクが入らず、ボールを置きにいくピッチングがことごとく裏目に出たゲームだった。
 その前兆はすでに先頭打者のロコ・ボルデリを迎えた時に出ていた。
 初球から低目を狙ったボールが高めにいったり、逆球になったりと制球が定まらなかった。それでも井川が1ストライク3ボールからセカンドフライに仕留めることが出来たのは、ボルデリがフリー・スインガー(積極的にバットを振ってくる打者)だったためである。
 しかし、2回になると明らかなボールが増えたため、相手打者も手を出さなくなってきた。岩村明憲とエライジャ・デュークスに対しては、キャッチャーが構えたところへボールが行かなかった。二人続けて四球で歩かせ、8番ポールにはチェンジアップをヒットにされた。決して強い当たりではなかったが、少し高めに入ったので空振りが取れなかった。
 1点を失った後で、フリー・スインガーの9番アップトンが打席に入った。アップトンは初球がボールになったにも関わらず、二球目の難しい変化球に手を出して一塁へのファウル・フライに倒れた。
 打者一巡して再びボルデリが打席に入った。第一打席で有利なカウントになっていたにも関わらず、ボール球に手を出して凡退した、あのリードオフマンである。
 井川が投げた2打席目の初球はスライダーで、それは高めに外れた。
 ボルデリはまるで打つ気がないように見えた。
 そこで井川はこう考えた。
『初球がスライダーでボールだったから、次は真っ直ぐでストライクを取りに来る、と思うはず』
 そこで井川はその裏をかいて、同じスライダーを投げた。
 ところがボルデリは、その「打ってこないはずのスライダー」に完璧にタイミングを合わせて鋭くバットを振り抜いた。
 それは井川の中にあったメジャーリーグのバッターに対する違和感が、3ランホームランという結果になって現れた瞬間だった。

(次号に続く)

 

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